日韓映画文化交流研究会の「6月のお誘い」作品、「罪深き少年たち」を観てきました。
「韓国映画から見る、激動の韓国近現代史」の著者崔盛((チェ・ソンウク)氏の登壇が「お誘い」後に公開され、ラッキーなことでした。
トーク後に、会員さんとのアフターディナーも久しぶりに行うことができて、とても有意義な半日になりました。
この映画の原題は「소년들(少年たち)」ですが、邦題では「罪深き少年たち」と吹き替えられています。
映画を観て、例によってこの邦題に納得がいかなくなりました。
この物語は、えん罪で刑期を終えた若者が、周囲の善意ある大人の援助を得て、再審請求をし、名誉を回復するという話です。
では、邦題の「罪深き」は、いったい誰を指しているのでしょう?
検察から殺人犯に仕立て上げられた少年たちなのか、真犯人の少年たちなのか。
最も罪深いのは検察や刑事などのおとなたちのはずなのに。
ところで、この映画は、今、韓国で受けているファクションのジャンル映画です。
ファクションとはfactとfictionの合成語で、事実と虚構とを織り交ぜた作品のことです。
この作品では、どこまでがファクトでどこからがフィクションなのか、知る由もありませんが、アフタートークで明らかにされたことの一つに、事実は、彼らが刑期を終える直前に傾聴ボランティアとして面会した女性に少年らが、自分たちは事件にかかわっておらず、拷問に耐えかねて嘘の自白をしてしまったことをきっかけに、事実が明かされていったことが挙げられました。
この女性の傾聴ボランティアが、男性刑事というキャラクターに変更されたのは、監督曰くソル・ギョングをキャスティングしたかったからということでした。
そこで、ソル・ギョング扮する刑事が自分の免職をかけて、再捜査し、彼らの無実を証明するという筋書きに変更されました。
アフタートークで、興味深かったエピソードは他にもありました。
それは、韓国では検察が強大な力を持っており、金大中大統領とその後に続く廬武鉉大統領は、この権力にメスを入れようとして失敗。
廬武鉉大統領の後の自死はこのことに端を発していると、このトークで初めて知りました。
その後、廬武鉉大統領と共に弁護士事務所を経営していた文在寅大統領も遺志を継ごうとしましたが失敗に終わっています。
そして、保守の現大統領尹錫悦はこの検察の出身だとか。
この無罪の判決を経ても、えん罪に加担した者は誰一人罪に問われなかったことが、エンドロールで明かされました。
冒頭にも書いた通り、この映画で罪深きは大人たちですが、女性は全てこの少年たちのみかたでした。
弁護士、刑事の家族、えん罪で捕まった少年の妹、被害者の娘と孫、そして、真犯人の少年を弁護側の証人として法廷に立たせたのも彼の妻でした。
また、少年の一人は自分の名前すらかけない障がい者でした。
これは偶然ではなく、監督の意図ではないでしょうか。
この映画は、女、こども、障がい者などの弱者に相対する権力に対抗する作品ではなかったか、そのためのソル・ギャングキャスティングではなかったかと思わされる映画でした。
最後になりましたが、アフタートークでの私の最大の関心ごとは「なぜ韓国では、政治に切り込んだ作品が次々と作られるのか。」ということでした。
日本では、政権に対して作り手自身が忖度してしまう。
日本の映画はヒットしたドラマの映画化が多いから、テレビ局やスポンサーまでも敵に回しかねない。
例えば、シム・ウンギョン主演の「新聞記者」は日本人女優にことごとく断られて、設定を帰国子女に変えて韓国人の女優で撮ったそうです。
それに比較し、韓国では、とりあえず作っておいて、公開できる政権になったら公開しようというスタンスで作るから、次々と出てくるということでした。
つまり、安定政権とドラマの映画化が日本の映画をダメにしているということでしょうか。